写真教室で習うと、「主観的写真」が撮れるように練習しましょうと教えてくれる。
記録写真や旅行のスナップ写真を卒業したい人は多い。
みんな、どうすれば感動的で、個性的な絵作りの写真が撮れるのかを習いたいと思う。
1年以上写真を撮ってみると、誰でも撮れる写真はつまらないと思うようになる。(それすら、撮れないことが多いが)
花の写真は、とにかく図鑑の写真になりやすい。それは、花と撮っているという意識があるから。
でも、光と色の空間としてとらえると、より豊かな絵作りの可能性がある。
主役である花だけでなく、背景空間の色の世界をもっと意識する。
「写真撮影を楽しむ」には、主観的写真の世界に飛び込むことが必要です。
個性的な写真は、「自分だけがいいと思える写真でいい」
その作品には自分の主観とテーマがある。
技術ではプロには勝てないし、撮影技術が向上したところで、上手な写真は職人写真でしかない。
主観的写真かどうか。
これは、「自分がいいと思う価値」を持っているかどうか。
写真の先生は、みんながいいと言ってくれる写真が「いい写真」だと教えていたが、先生はプロのカメラマンだから最もな話。
「みんながいいという価格がつく写真」は、本当の主観的写真ではないはず。
それは「売れる写真」であって、主観的を演出した写真ではないでしょうか。
「価値と価格」は厳密に理解しないといけないと思います。
技術力は合っても、人の心をつかめない日本の工業製品のように品質と機能と価格だけの「ものづくり」には、感動は生まれない。
写真も、商品を作っているのではない。だから、誰もが評価してくれる「最大公約数」など必要ない。
これは、作品づくりをする純粋な写真家の立場での考えです。(売るための商品をつくるプロのカメラマンなら必要)
※芸術家の岡本太郎は、生涯自分の絵を商品としては売らなかった。ゴッホも。
日本のプロの写真家は、広告代理店の素材として写真を撮って納品しています。または、出版社に雑誌や本の挿絵として写真素材を納品しています。これらは、商品としての写真であり、客観的写真であることが多いです。
日本では、音楽の世界のように、芸術的な価値と商業的な価値が近くないのは残念です。
記録写真のような客観性や事実を写したものが写真だというイメージは、新聞カメラマンの文化の影響がある。
どんな表現であるか、よりも、何を撮ったのかが大事だと考えられる傾向が強い。
しかし、世界では報道カメラマンはもっと主観的で個性的な写真作品を沢山撮っている。
報道よりも、純粋なアートフォトの写真家も多い。結果的には、広告業界とうまくつながっている。
日本には、「カメラ雑誌」はあっても、「写真雑誌」は存在しない感じがするのは、写真という文化の薄っぺらさを表していると思います。
日本では、アメリカのように写真を芸術品として購入する文化がありません。
せいぜい、カレンダーか写真集の本。本当の写真は、印刷ではなくて、印画紙にプリントしたオリジナルプリントだと思います。
写真ギャラリーは、無料の展示場という意味しか持っていない日本。写真美術館もやっと、東京にできたところ。